昭和44年9月1日 朝の御理解

御理解第95節「世には神を売って食う者が多いが、この方は銭金では拝まん。神を商法にしてはならぬぞ」



 「この方は銭金では拝まん。神を商法にしてはならんぞ」と。「世の中には、神様を売って食うような者が多い」と。えー、神様を生活の為の神様にしておる者が多いとこういう。確かにそうですね。
 お道の信心を頂いておりましても、人が助かることさえ出来れば、というお広前と、とにかく教会が立ち行くということだけを願うお広前と、二つに分けることが出来ると思うですね。
 ですから、信者に御用、御用というて、その教会が立ち行くことのために、その御用精神を説いたりしておるような、まぁ神を商法に使っておるようなもんだと。人が助かることさえ出来れば良い。人が助かることさえ出来れば良いというような生き方で、いっておる人がいる。
 先日も、ある教会の先生がお話して見えて、こういうような信者が私の方におりますと。熱心な信心を求めてまいりますが、この信者はどのような風に育てたらよろしいでしょうか、というようなお伺いだった。どういう風に、まぁ育てていったら、いいだろうかとこういうのである。
 それで私は申しました。信者をどのように育てるなんていうようなことはありませんよち。本当に真剣に求め、真剣に助かりを求めてくるならば、ね、お取次ぎをなさる先生自身が本当に育っていったらいいんですよ。育てるのは神様ですから、という風に申しました。
 誰をどういう風に育てよう。彼はどういう風に育てよう。そしてそこに、そこにまぁあんたはこういう教えを頂いてきたから、この生き方で生きなさい、という風にもうすでに神様を、神様というかね、教えを商法に使っておるような感じがいたしますね。
 最近、「大家?」さんが教会の移転をせまられると。それで土地を買って、教会を建てるか。どっか家でも又借りるか。まぁよりより信者の主だった人達が話し合っておりますが、どういうような、まぁ方針で、いたらよいだろうかと。
 とにかく人が助かりさえすりゃ良いのですから。お繰り合わせを願って、神様どういうようにお働き下さるか分からんけれども、まぁ先生の気持ちとしては、ね、それこそ畳6畳、一間でもかんまん。そこで先生が(にかまれ?)をなさる、神様をそこに祭ってある。そこにまぁ教会いよいよそこで行われる。
 けれども六畳いっぱいにあんた、何時も教えを求めてくる信者があり、何時も助けを求めてくる信者がいれば、もうそれで結構じゃないか。今まではこういうお広い、お広前におったから、ね、やっぱり広いお広前でなからにゃならんといったような事はないですよ。
 ね、神様がとにかくお広前は狭うなったけども、信者が増えたちいうようなおかげ頂けやいいじゃん。本当に、あの、私申しましたね。まぁ私は何時もそう思います。
 ね、(たんま?)に大きな立派なお広前建てましても、がらんどうのようにしとったら、意味ないですもんね。私が何時も良く思いよった、大掃除が椛目の時代にあると、御結界を楽室の4畳半の方へ移されます。ですらからもうほとんど御結界が、その4畳半の半分をとってしまう。
 小さい塾がかかっておる、小さい床の間がある。私(?)そんなこと思うんですね。ここに神様をお祭りして、この4畳半の半分はもう御結界である。半分は私のいわば寝る所であり、ね、そこの半分の畳、2畳か2畳半のところへ、その信者が何時もきれずに、そこに、いわば、あー、拝礼したら表でお取り次の終わられるのをちゃんと待って、入られんから、それでも良いと私は思う。いやそういうような、もうお供えを持って着たら、ならあんたが洗うて来てから、あんたがお供えして帰んなさいちいうて、もうこっちはどうせ、お御結界座っとるだけで良い。
 例えば家族がいなく、私が、いなくなって、例えばそんなに狭いところに住まわねばならんようになっても、それで良いと私は思う。
 どんなにか、神様がその素朴な、その助かりにですね、お喜びになるであろうかといったようなことを、考える。いや私何時も考えよったあの、あの大掃除の時に。ね、中であの2、3人の人が御理解頂いておる。頂けん、入られん人は、表でそれを待っている。交代で何時も、人が助かっておる。それでいいんだと。
 それは勿論、人が助かることのために立派なお広前もいる。いけんというのじゃない。出来れば出来る方がいいんだけれども、私はそういうような、お道の信心はものでなからなければならんと思う。
 御理解に、話しを聞くばかりが能ではない。わが心からも練り出せと仰る。自分で、例えばこれは、まぁお取り次ぎ者といしてはね、話をするばかりが能ではない。ね、わが心からも練り出せと。
 丸きりその、教祖がこう教えられた。親先生はこう言うておられる。というてその、丸きり親先生を売り物にしておるような、これはいうならば二代三代、あるのじゃないだろうかと思う。
 親先生はこう言われた。親先生はこう教えられた。親先生というたら皆がはーちうて、平伏するもんだから。親先生をね、自分よりも親先生の方が高く売れるもんだから、親先生を売り物にする。すでに神を売り物にしておるのと同じこと。
 教祖様はこう教えておられますよと。丸きり教祖様を売り物にしておるのと同じ事。ね、教祖様がこう教えられた。私はこれをこう取り組んだ。こうおかげを頂いた。これならば、自分、自分のその教祖を売るのでもなからなければ、親を売るのでもない。神を売っとるのじゃない。
 教祖様がこう教えておられる。それを私は今日こう行じさせて頂いたら、こうおかげを頂いたと。まずわが身におかげを受けて、話て行く。というような生き方だったら、これは立派だと思う。
 自分も行じきれないのに、教祖様はこう教えておられるですよというのは、もう教祖様を売っておるようなもんじゃないだろうかと思う。ね。親先生はこう教えられておる、こう言うておられる。なるほど親先生というただけで皆がはー、というわけなんです。ね。ですから、子供になり、孫になってくるといわば教会の御比礼が落ちてくる。
 親先生はかく教えられた。それを私はかく取り組んでいく。親先生は嘘は仰っちゃない。親先生が言われたことは本当だったと。自分のものにして、それを人に伝えるならば、やはり親先生も素晴らしかったなぁ、若先生も素晴らしいなぁ、3代はいよいよこれはおかげ頂くという事になってくると思うんです。
 この20、先月の29日の、敬神会に私が留守でございましたから、若先生が私に代わって、まぁ色々お年寄りばらいの会ですから、おばあちゃん達と一緒に(共励?)させてもらえた。明くる日、参ってきた方が、もう先生昨日もう親先生がおられんでも、若先生で(?)皆おかげ頂きますち。もう若先生のお話を頂いて皆まぁ(かんめん?)したとこういうてお届をされるのです。
 そのあの人が十幾つだったでしょうかね、まだ子供の時に、そのとにかくもう大変ないたずらでしたからね、何か、その竹を削って、その竹をポーンとこう、おーそのこうはね、羽やる遊びがあの時分に流行っとったんです。
 その竹が目に刺さった時の話しを、いわゆる体験を話しとる。ね、もうその時、事だけではないけれどもです、もうそれこそもう、あの母に抱かれてからです、もうとにかく目がこうひっくり返ってしもうとる時に、目に竹が刺さったんですからね。
 それを裏の「しのはら?」さんが、もうびっくりしてから、あの奥さんでは、あの、どうにも出来んから、直ぐ近所に仕事しておられたご主人を呼びに行かれた。そりゃお前ちうちから、こうやって引きのがれて、引きのがれる時に目が、目がひっくり返ってしもうて、出てしもうた。竹を(そう?)ぬかれた。
 それでもうこう(?)の中に目が飛び出たような形になっておった。私は丁度御結界奉仕させて頂いたから、よし痛まんようにお願いするぞ。もうひって泣いておる。その時に親先生はもう御結界から立とうとも、御神米も下げられじゃった。
 後々で考えてもう本当に、その親先生はもう冷たい、冷たい人だなと。まぁ子供心にも思うたち。ね、ところが、まぁあのようにおかげを、それこそ目薬一つさすのじゃない。えー、お医者さんにみてもらうのじゃない。近所に一緒に遊んでおった子供達の母親が、やっぱり責任を感じられて、皆あー、お見舞いに来り、その見舞いにこられて、とにかくはよ医者に連れて行って下さいといわれたけども、私はいえー、もうご心配いりませんと。
 ご心配いりませんから、というて私は引きとってもらった。その時のことを、をあの話ておりますがですね。そして次々、その自分達が体が悪く、病気をいたしましたら、小さい菌。まぁこれはもう間違いなし、破傷風だと。皆がいわれる、その長い間こうはいはいして御祈念に出た自分のことを、もうそれこそ先生はもう部屋に、はい、私がもうあげん苦しんどっとに、どんな風かというてあの長い間、一遍だってみげにもこらっしゃれんやった。
 ね、どんな風かとも尋ねられなかった。ね、ですから、いかにもそれは、冷たい親だなぁとこう思うけれど、結局はおかげを受ければ良いのである。おかげを受けるという事。ね、おかげによって、お取り次ぎをさせて頂くのに、やはり一つの確信を持ってお取り次ぎが出来ると。という意味のまぁ話しをしたらしいんです。
 ね、親先生がこういう時にこういう風な態度を取られた。というだけならこりゃ親先生を売り物ですよね。けれども、私はそれをこう受けた。今日、こう行じた。そこには医者も薬もおよぶどころではない、ほどしの霊験が立っておる。と、その自分の体験を話すなら、これはもうすでに自分の芯、こう教えられてこう自分は教えられて、こうおかげを受けたという話しですから、こりゃ親を売り物という事にならんのだとこう。
 親先生偉かったなと。親先生はこうじゃったというだけを、もし話すならこりゃもうすでに親先生を売り物にしておると、まぁ今日この95節をここではね、普通一般で申しますね。お守り札を商品にして売るところがある。三百円のつもありゃ五百円のつもある。お守り札に。
 ね、ご祈祷ではいくら。お守りにいわば金額できくとときかんとがあるような感じがする。ん。写真屋さんが写真を写して、写真代をもらうのと同じ事じゃない。ね、ご祈祷料。ね、まぁそういうようなのが、世間一般には多い。ね、神を商法に使うて、そういうような意味をここでは仰っておられると思うんです。
 けれども、これをもう少し、厳密にというか、深くというか、頂いたら、今日私が申しました、教えを売り物にしておる。親先生を、いわば売り物にしておる。いや教祖様を売り物にしておる。といったようなことも言えるのじゃないか、とこう思うのです。
 ね、これは取り次ぎをする先生だけのことではありません。ね、銘々の上にも、やはりそこんところを分からせて頂かなければならん。
 ね、お客さんが喜んで下さえすればよいという商売。ね、人が助かって下されば良いという信心。私のは金光様の信心しよるけんもう、決してそげなん無法なことはしません。私のは信心しよるけん、他所とは違います、といったようなことをもしほのめかすとするなら、もう私は神様を商法に使っておるも同じ事。
 ね、主人の精神が、とにかくお客さんが喜んで下さる。さえすればよいといったような、あー、精神を持って、例えばお商売が出来ておるとするなら、ね。あっちは違う、あっちは信心しござるからと、いわばお客さんからいわれるくらいな信心を(一つ?)頂きたい。
 ね、信心の真、真心というものが、いわばサービス精神に現われてくる。そういうおかげを頂きたい。
 信心は、信心によって、おかげを受けなけれならんという事は勿論ですけれども、「信心は本心の玉を磨くものぞや」と仰るですから、磨くことによって、受け物を得て行く。おかげの受け物。ね、改まることによって願う。そういう信心態度。
 磨こうとも努めない。改まろうともしない。それでおかげを受けることだけを考えておるとするなら、それはやはり神様をね、道具に使っておるようなもの。ね、神様を病気治しだけに使っておる。神様を商売繁盛のためだけに使っておるようなもの。私は商法にしてはならんという、同じような意味のことが言えるのじゃなかろうかと、こう思う。
 ね、改まろうともせずに、願いをかける。磨こうともせずにおかげを受けようと思うておる。ね、いわゆる神様を道具のごと思うとる。神様を(バント?)に使おうとしておる。ね、神様を集金に( ? )と思うた。何処何処に集金に行きますからよろしくお願いしますと。、丸きり神様を集金に連れて行くと、集金がやるといったような考え方、考え思うとる。
 ね、いうなら、神様を例えばそういう集金に、(人に?)使うたり、ね、場合によっては神様を道具に使うようなことでは、私はいけない。どこまでも信心とは、本心の玉を磨くもの。信心とは日々の改まりが第一。ね、改まることによって、願う前にはまず改まれ。願うなら。ね、おかげを受けたいならまず、受け物を磨け。
 ね、そして後にです、それが願われるとするならばね、やはりそこに本当の信心。いわゆる真の信心。真のおかげが、頂けれると思うのです。ね、こう( ? )まいりますと、95節は、これは必ずしも取り次ぎ者だけではない事が分かります。
 ね、こういう94節、95節、ずっとこっちから先は、まぁ大体取り次ぎ者に下さる、教会に下さっておるよう御理解ですけれども、ね、これはやはり私共一般のご信心を頂く者もそういう風に頂いてまいりますと、この御理解が生きてきて、とこの御理解に言うておられるような事になっておらんかと、お互いが反省しなければ行けないと思う。
 ね、四神様が、ね、この方の信心はね、「病気治しや災難避けの神ではない」と言うておられる。ね、「心治しの神じゃ」と。それをあの病治しや、災難避けの、なるほどこの頃の夏の祈願祭のようにね。悪疫予防、交通安全と様々な願いというものをです、立てて、の祈願をするわけですけれども、けどもその根本のところが違う。ね、その願いと言うものが、神様の願いに通じるというところに、祈願祭がある。
 ただ自分が、災難に合わんだけのために、災難避けの札をもろ、買うてくるといったような、御神米もろうてくるといったようなものではなくて、ね、どこまでも、ね、改まって願わせてもらうのであり、磨くことによって、受け物を作るのである。
 ね、それを合楽では、もっともっと素晴らしい事にしていくために、いうならば神様が喜んで、しかものしを付けて下さるようなおかげを頂く為に、私共の信心、生活の上にものしを付けよというておるのです。
 ね、事神様のことなら、自分の(都合?)なんか言うてはおらん。神様の前にのしを付けきってしもうておる。そういう信心をするから、神様も又のしを付けて下さるようなおかげを下さる。
 ね、強引に下さい、下さいというてもらうのじゃない。そういうおかげを、まぁ合楽では皆目指しておるわけでございます。そのために、例えば今日は神を商法に使うてはならん。これは、まぁ教会に、お取り次ぎ者に対する戒めの言葉であると思いますけれども、私共でもです、ね、神様を商法に使うておるようなことが気の付かない間にあっておるのではなかろうか。
 (?)特に今日感じましたことは、神を売るという事はね、親を売るとか、教祖を売るといったような事が平気でなされておるようなこと。教祖様のみ教えを責め道具のようにして、教祖様はこげん教えておられうちゅうてからいう、責め道具に使う。
 これはもういよいよ、神様を教祖を売っておるようなもんです。ね、特に二代三代がです、親先生はかくいわれた、かく教えられた。というてそれを売っておる。信者に。これでは御比礼が立たんはず。立たんようになっていくはずだと。
 親先生はかく教えられておられた。それを私はこういう風にそれを頂き、こういう風に行じさせて頂いたら、親先生が言われるように、こういうおかげを頂いたというのならば、これはおかげだとこういう。
 ね、そういう事がですね、気が付かんなりに、ただ親先生を売り物にしておるような事がありはしないだろうかと思うですね。これは教会事態。ね、それをまた、私共、皆さんの信者の立場で、頂きますとですね、磨こうともせずにおかげを受けようとする。改まろうともせずに願う。それは神様を、いわば、商売繁盛のためやら、または病気治しのために使おうとしておるのであるから、ね、商法に使うのも同じような理屈だといったようなことを申しましたね。どうぞ。

梶原 佳行